「人間が優れた動物だ。」って人間しか言わないんだよね。
2004年5月14日 言葉のラビリンス最近気付いたことがある。
男は過去の恋ばなについて、よく話すことがある。
女は過去の恋ばなについて、よく話すことはない。いや、話しているんだろうが、男ほどではないと思う。
なぜならば、大概にして(例外を除く)
男は付き合っている女に過去
どういう男と付き合ってきたか?を聞くんだろうけど
女が男にどんな女と付き合ってきたの?
とはなかなか聞かない。
なぜだろうか?
やはり女と比べて男のほうが過去にこだわる動物なのだろう。
俺自身もそうだと思う。
なんだかんだいって、
こだわりは過去。
日記を書くといっても結局は
今日の出来事=その時点ではすでに過去
を書いている。
人によって認識が違うだけであり、
厳密には間違いない。
今というのは、一瞬の事であり
今という一時はないのである。
例えば、死んだ人間をいつくしみ思い出すことはあっても
これから死ぬであろう人間に対して、思いをはせることはしない。
今の状況をうれうのであって、将来のことを慮る事ではない。
先のことをかんがえても今は今。
例えば、犯罪を犯した人間を何十年経ってもちくりちくりいう人間はいても、その犯罪者の努力を素直にみとめようという人間はなかなかいない。
例えば、今取り立たされている年金問題。将来の事を考えなければならないのに、過去の事ばかりを今ワイドショーは取り上げている。
過去だから、もう変えることができないから…
年金問題の解決が先だろう、政治家と年金、つながっているのは制度
という立法という側面だけであり
その政治家個人個人が未納だろうが、未加入だろうが
関係ない。
私たちの将来をどのように法整備していくのか
そっちが先なのである。
このままあやふやなまま立法が成立しても
結局影響を受けるのが
いま活躍している政治家が死んだ後である。
そのときになって、おそらくまたワイドショーは過去を掘り下げるだろう。
40年前はこんな年金体制でした。
別にワイドショーが悪いといっているわけではない。
。過去にこだわるという事、それは今を見ないということである
だから、日記でよいのである。日記に自分のためだけに過去を記し、
過去と向き合う時間を作る。
人にみてもらうのも、自己満足。それで、よい。
そんな日記をこれからも書きつづけていきたい。
男は過去の恋ばなについて、よく話すことがある。
女は過去の恋ばなについて、よく話すことはない。いや、話しているんだろうが、男ほどではないと思う。
なぜならば、大概にして(例外を除く)
男は付き合っている女に過去
どういう男と付き合ってきたか?を聞くんだろうけど
女が男にどんな女と付き合ってきたの?
とはなかなか聞かない。
なぜだろうか?
やはり女と比べて男のほうが過去にこだわる動物なのだろう。
俺自身もそうだと思う。
なんだかんだいって、
こだわりは過去。
日記を書くといっても結局は
今日の出来事=その時点ではすでに過去
を書いている。
人によって認識が違うだけであり、
厳密には間違いない。
今というのは、一瞬の事であり
今という一時はないのである。
例えば、死んだ人間をいつくしみ思い出すことはあっても
これから死ぬであろう人間に対して、思いをはせることはしない。
今の状況をうれうのであって、将来のことを慮る事ではない。
先のことをかんがえても今は今。
例えば、犯罪を犯した人間を何十年経ってもちくりちくりいう人間はいても、その犯罪者の努力を素直にみとめようという人間はなかなかいない。
例えば、今取り立たされている年金問題。将来の事を考えなければならないのに、過去の事ばかりを今ワイドショーは取り上げている。
過去だから、もう変えることができないから…
年金問題の解決が先だろう、政治家と年金、つながっているのは制度
という立法という側面だけであり
その政治家個人個人が未納だろうが、未加入だろうが
関係ない。
私たちの将来をどのように法整備していくのか
そっちが先なのである。
このままあやふやなまま立法が成立しても
結局影響を受けるのが
いま活躍している政治家が死んだ後である。
そのときになって、おそらくまたワイドショーは過去を掘り下げるだろう。
40年前はこんな年金体制でした。
別にワイドショーが悪いといっているわけではない。
。過去にこだわるという事、それは今を見ないということである
だから、日記でよいのである。日記に自分のためだけに過去を記し、
過去と向き合う時間を作る。
人にみてもらうのも、自己満足。それで、よい。
そんな日記をこれからも書きつづけていきたい。
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