彼女は、いった。
「わたしのいやなことをいうと
あなたがいやだとおもうことをするよ。」

よーく、覚えておきたい。
これは、逆も意味することは同じである。
彼女がおれのいやのことをいうのであれば、
俺は彼女のいやのことをすると。

このように会話ですむのであれば
問題ないだろう。
だが、実際おこってからでは遅いのである。
そのとき、
ネコなで声で
「ごめんね、」
というだろう。
俺は、それをある意味
やさしさという毛布でつつみ
「だいじょぶだよ」
という言葉のイミテーションを用いて
事象を受け入れるのである。

疑うことと、心配すること。
これは、ある意味親戚のようで、
全くの赤の他人。
この解釈を
人にするのは、
正直限界がある。

だから、一人がいいのかもしれない。
正直、いまのおれには
彼女には、生のはけ口をもとめている。
生と性。
それもいまや、たいして機能していない。
なんでも言える関係。
あったら、愛し合える関係。
それは、なかのよい友達と大して変わらない。
それは、付き合った当初のカップルと大してかわらない。
彼女の存在とはなんなのか。
彼女は俺を必要としている。
俺は、彼女を必要としているのか。

意識して行動する、生を認識する。
感情のまま思いをぶつける。
背景のない絵画。
レシートのない、買い物。
動機付けのない殺人。

無意識な行動が人間は一番の至福のとき
をかんじる。
だから、眠りを妨げられると不快感を得るように。
あかちゃんが泣くのは、
その無意識の状態から
意識を認識するという生を感じる行動に対して
反感を抱いている態度なのである。

恋もそうだろう、意識して振舞うようになれば
そこに、反発や苛立ち、戸惑い
を自己にも相手にも感じるようになる。

答えを求める事、答えをださない事、
どちらの選択も今の俺には
意識してしまう行動である。

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