法的な道筋にそって
2003年11月22日明日、いとこのおねえちゃんが結婚式を
あげる。
喜ばしい事だ。
それで、親族一同があした、東京に来る。
迎えに行くのは
うちとうちの弟。
そのための準備をこっちでしている。
いつもいつもなぜか完璧でなければならない。
なぜだ?
うちは家族経営の仕事を行っている。
もちろん、私ははずれたが。
普通なら、アバウトな部分があってもよい。
例えば、電車の時間がいっぽん遅れるだとか。
例えば、行き先の道を間違えるとか。
例えば、和食と洋食の料理を変えるとか。
例えば…
いっぱいあるが、それはすべて許されるものではない。
ふつういとこのおばさんといったら、
自分の息子以上に可愛がるか、否か
それだけだ。
言葉と視線はまるで違う。
優等生でなければ、私の血筋は親を疑われる。
だから、私にいわせれば今回の結婚式も
式になっても、式がはじるまえから
これじゃあ、まさしくセレモニーである。
昔はこれでこづかいをもらっていたから
よいのだが、
今年から社会人のためもらえない。
何のために完璧に行うのか。
己のためか?
偽りの自分を見せつづけるためか?
よく、素直にいきることがきれいという。
素直に生きることが己のためという。
嘘である。
人間は自分にうそをつくことで
きれいになっていく。
そしたら、ホームレスのいきかたは
きれいなのか?
天皇の生き方は正当なのか?
出会ってみたい。
ほんとにそんなことを信じている人に。
結婚も相手を信じ、尽くし、そして
残りの人生の焔火をいっしょにたやさぬよう
生きていく。
それこそ疑問符である。
妥協の終着駅が結婚である。
つまり、そこに偽りがある。
ないのはそのとき二人の気持ちが純粋、
つまり自分に嘘を、他人に嘘をついてないだけ。
一時なのである。
単なる法的な手続きに華を、かざりを
装うことによって
その日を祝うのである。
それこそ、偽りなのである。
だが、ゆくゆく俺も結婚する時
はこんなことを否定するであろう。
自分に偽りの仮面をかぶせながら…
あげる。
喜ばしい事だ。
それで、親族一同があした、東京に来る。
迎えに行くのは
うちとうちの弟。
そのための準備をこっちでしている。
いつもいつもなぜか完璧でなければならない。
なぜだ?
うちは家族経営の仕事を行っている。
もちろん、私ははずれたが。
普通なら、アバウトな部分があってもよい。
例えば、電車の時間がいっぽん遅れるだとか。
例えば、行き先の道を間違えるとか。
例えば、和食と洋食の料理を変えるとか。
例えば…
いっぱいあるが、それはすべて許されるものではない。
ふつういとこのおばさんといったら、
自分の息子以上に可愛がるか、否か
それだけだ。
言葉と視線はまるで違う。
優等生でなければ、私の血筋は親を疑われる。
だから、私にいわせれば今回の結婚式も
式になっても、式がはじるまえから
これじゃあ、まさしくセレモニーである。
昔はこれでこづかいをもらっていたから
よいのだが、
今年から社会人のためもらえない。
何のために完璧に行うのか。
己のためか?
偽りの自分を見せつづけるためか?
よく、素直にいきることがきれいという。
素直に生きることが己のためという。
嘘である。
人間は自分にうそをつくことで
きれいになっていく。
そしたら、ホームレスのいきかたは
きれいなのか?
天皇の生き方は正当なのか?
出会ってみたい。
ほんとにそんなことを信じている人に。
結婚も相手を信じ、尽くし、そして
残りの人生の焔火をいっしょにたやさぬよう
生きていく。
それこそ疑問符である。
妥協の終着駅が結婚である。
つまり、そこに偽りがある。
ないのはそのとき二人の気持ちが純粋、
つまり自分に嘘を、他人に嘘をついてないだけ。
一時なのである。
単なる法的な手続きに華を、かざりを
装うことによって
その日を祝うのである。
それこそ、偽りなのである。
だが、ゆくゆく俺も結婚する時
はこんなことを否定するであろう。
自分に偽りの仮面をかぶせながら…
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